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  • 実行委員会の活動
  • 2018.06.15

「人一生の育ち」を考える ’教育×経済’ 対話 第八回「グローバルシステムの学び方と生き方」

東京大学大学院教育学研究科准教授 北村友人氏 × ジャーナリスト  ニールセン北村朋子氏

第8回のテーマは「グローバルシステムの学び方と生き方」。国外の視点から、日本の教育について考えていく。講師の1人目は、東京大学大学院教育学研究科准教授の北村友人氏。大学とはそもそもどういう場なのか、現在大学教育がグローバル化を求められていることについて考える場となった。2人目は、教育先進国とも呼ばれるデンマークにて子育てを経験し、コンサルタント、ジャーナリストとして活躍するニールセン北村朋子氏。デンマークの教育に対する深い思想や、子どもから成人教育までの実態を伺った。

教育には公平さではなく、公正さが必要

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北村友人氏のお話では、グローバル人材の育成を手掛かりに『高等教育の育ち』を考えていく。日本の大学は今、グローバル人材を育てるべきと経済界を筆頭に各方面から言われているが、北村氏はまず、歴史的に大学が誕生した頃を振り返ると大学というのはグローバルな組織だった、と話す。

 

「大学の原型が誕生したのはヨーロッパです。街で職人組合、ギルドと呼ばれる、知識やスキルをもった先生のところに学び手が集まる場ができたというのが出発点です。知識人というのはある種の特権階級なので、街の人にとっては決して面白い存在ではなかったんですね。それで、集う場所をどんどん移していたんです。中世から近世にかけては特に、ボーダレスに拠点を移していて、それぞれの場で得た知見が自然と集まってくるような場だったんですね。

 

日本で大学の基礎が出来上がった19世紀も、当初は世界の最先端の知見を物理的に集めてきた、というような場でした。最初はドイツなどの欧米諸国に人を送り込み、学んだものを基礎として持ち帰ってきました。大学は元から開かれていて、外から得たものを自分たちなりに組み替え伝える場、それを社会の発展に直接つなげていくための場だったのだと思います。」

 

こうして発展してきた日本の大学だが、100年以上が経過し、その様相も大きく変わってきた。今、特に国立大学で重要課題として挙げられているのが「高等教育の公共性」の問題だ。

 

「アメリカは私立大学が大学教育を主導しています。自分たちで国を作っている、という考え方が強く、ハーバード大学をはじめ有名な大学は私立に多いのです。これに対し、アジア圏の大学はヨーロッパと近く、大学は国家成長のため国主導で教育を、という名目からスタートしています。日本では全国の4割の人が大学に行っていない現状がありながら、国立大学は国民皆が支払う税金で賄われている。ですので、ここで税金をどう使うのかというテーマがより重要になってくるのです。ただし、このことは私立大学の果たす社会的役割が小さいという意味ではありませんし、むしろ歴史的に私立大学はとても重要な役割を果たしてきました。」

 

現在日本の大学は、グローバルな人材育成や経済発展への寄与などを強く求められている。国の発展にフォーカスするあまり、各分野で優秀な人材が国外に出て行くことについて、人材流出と危惧する考え方もあるという。だが北村氏はグローバルなものの見方もあるのではないかと考えている。

 

「国別に見ていくと、日本と韓国は家庭が高等教育に一番お金を払っている金額が一番高いと言われています。こうして国内で教育をされ高い成果を上げた人物が国外に出て行くと、”頭脳流出”だと問題となります。例えば、2008年にノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎氏がかつて1960年代にシカゴ大学に行ってしまった際には、まさに頭脳流出だと話題になりました。でも実は、南部氏は定期的に日本に帰ってワークショップなどを行い、結果的に国内の研究者が育ったという見方もあります。流出という見方だけでなく頭脳環流、あるいは頭脳共有という捉え方もあると思うんですね。」

 

大学のような高等教育の場で、人を育てるために何が必要か。この点でも、物事の捉え方をシフトする必要があると北村氏は考えている。

 

「『限られた資源、人をいかに大切にし、配分するか』という発想が大事だと思います。個人の能力をどのように配分するのか、その考え方を促すのも教育の役割ではないでしょうか。

 

教育を考えるにあたって、公正さ(equity)と公平さ(equality)の2つの違いは大事だと思うんです。今までの日本の大学教育は、公平さ(equality)の原理に翻弄されてきたのではないかと思います。どんな人であれ、たくさんの人にできるだけ多くの知識を効率よく与え、できるだけ多くの企業に就職して長く働いてもらう。そして大きな富を生み出してもらう、という発想です。でも、これからは個々の持つ能力を見極め、その人が持っている能力に応じて、それを最大限活かせる場がどこにあるのかを考え、最適な場に送り出すといった、公正さ(equity)の観点が重要ではないでしょうか。」

知識を創り出し、使える人こそがグローバル人材

これからの人材を育てる大学教育で無視できないのが、世界規模で何が課題に挙がっているかという点だ。ダボス会議の報告書などに見られる地球規模の課題は、温室効果ガス排出量の増加やエネルギー農産物価格の急激な変動、サイバー攻撃への対応など、どれも1分野を極めただけでは解決がつかない問題。そこで重要視されているのが、教養教育と呼ばれるものだ。

 

「確かに変容するグローバル社会のニーズに対応するためには、教育の高度化は必要で、そのためには基礎となる教養は大事です。でも、重要視するあまり、大学の構造がこうした基礎教育と専門教育を分断してしまっているところがあります。そして、国内の教育と国際教育も分断され、別物の扱いになってしまっている。実は3つは本来一体のもので、考える上でも繋がりを意識しなければならないんです。」

 

近年教育を考える上で「アクティブラーニング」「グローバル人材育成」といったキーワードがよく挙がるが、北村氏は「これを身につければ成功する」といった、安易な発想が生まれていると危機感を抱いている。

 

「アクティブラーニングさえすれば、グローバルな人材が育つ、グローバル人材になれれば世の中が変わる、といった発想が日本には見受けられる気がします。でも学びの本質は、知識を生み出したり使えるような人たちを育てることだと思います。アクティブラーニングは、その一手法でしかありません。

 

グローバル人材というテーマにおいても、こうした安易さはよく見られます。グローバル人材を育てようという風潮の高まりから、大学も英語による講義科目を増やすように、とのプレッシャーを受けていますが、英語科目を増やすことが果たしてグローバル化に繋がることなのか、ということは考えるべきです。大学改革をする上で、英語さえできればグローバル人材は育つ、という非常に薄っぺらなグローバル人材論というのがどうしても幅を利かせてしまっているように思うんです。

 

あまり重要視されていませんが、日本の高等教育で素晴らしいところは、母国語で、世界最先端のことが学べることだと思います。これは世界的に見ても、とても恵まれていることです。例えば非西欧の国では、母語で高等医学を学べるところは日本以外にほぼありません。かつて日本もそうで、例えば東京大学は最初、ほとんどの教員が外国人で、英語やドイツ語オランダ語の講義が主流でした。でもそこから留学生が帰国して、教科書を翻訳したりしながら、母国語での学びを社会に浸透させていったんですね。こうすることで、高水準の学びが、国内に広くあまねく浸透する土壌ができたわけです。それが今の安定的な社会を作っているとも言えるでしょう。

 

こうした豊かな知を、日本語で習得し使う、その上で英語や外国語で表現する、本来であればその両方が大事ではないかと僕は思います。英語はあくまで手段と捉え、知識を創り出し、知識を使える人を育てること。これがグローバル人材育成と言えるのではないでしょうか。」

 

そして、大学の学びで重要なのは、正しさの基準が1つではないと知ること、と北村氏は考えている。

 

「例えばダボス会議で課題として挙がっている、温室効果ガスについて。CO2排出量削減の話は、かなり複雑な問題だと思います。元々先進国が成長する過程でCO2を大量に排出してきたにもかかわらず、温暖化が進みそうだとわかったときから、途上国も含めて等しく排出制限を要求しています。途上国の人からすれば非常にアンフェアな話ですよね。ここには技術的に解決できることだけでなく、政治的に解決しなければいけないことなど色々ありますし、先進国からの見方と途上国からの見方など、様々な角度、立場から考えなければならないでしょう。

 

大学という場は、このように正しさが1つでない、いろんなものの見方があると気づける場所であるべきだと思います。そしていろんな価値観、立場は一方的なティーチングからではなく、個々の側から学ぼうとするラーニングから得られるものです。そういった場を作るために、大学教員のあり方を再考する必要は非常に感じていて、どうやって教えるのかではなく、どのように学ぶ場を作るか、また、教えることと学ぶことの違いについて、もっと考える必要があると思います。そしてグローバルに開かれた、自分たちの社会の内外でいろんな出会いができる場を作る必要性を感じています。」

世界一幸せな国民の基礎を築く、教育制度

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続いては、現在デンマークに在住して16年というのニールセン北村氏から「幸せな社会を作るデンマークの教育システム」のお話を伺った。ニールセン北村氏は持続可能な社会づくり、民主主義、労働環境、気候変動適応・再生可能エネルギー、食と農業、子育て他様々なテーマでジャーナリスト、コンサルタント、コーディネーターとして活躍している。日本の中学3年生に相当する学年の息子をデンマークで育てながら、自身もデンマークで初めて起業するという経験を持つ。

 

「世界で一番幸せな国民」の原点は教育に対する考え方にあると感じるニールセン北村氏から、まず、デンマークの教育制度について話を伺った。

 

「日本の小中学校とほぼ同等の義務教育期間はありますが、いくつかの制度や根底に流れる思想はデンマークならではのものがあります。

 

まず、3歳までの子供を預かる保育所、保育ママ制度があり、待機児童は出ないようになっています。3歳から6歳の幼稚園を経て、6歳からは10年間、フォルケスコーレと呼ばれる義務教育が9年生まで行われます。0年生で初めてアルファベットや数字を覚えたり、席に座って学ぶことを覚えます。このとき育って行くペースは子どもによってまちまちですので、学校に行く時間を徐々に増やしながら慣らしたり、手助けが必要な子には保育士がつくこともあります。結果的に、クラス20人が全然別のことをやっていることが多いですね。

 

そしてユニークなのが、9年生の後、10年生という選択肢(エフタスコーレ)があること。これは寄宿舎制の学校で、将来を考えた時に必要なものは何なのか、ということを考える期間として大事にされています。必修科目のほか、興味のある専門的な分野(スポーツ、芸術、自然、エコロジー、政治、国際情勢など)の選択科目が魅力です。費用は自己負担ですが、国や自治体からの補助もあります。2014年から15年では、エフタスコーレという制度で24.5%、半分の学生がエフタスコーレに進学しています。

 

フォルケスコーレを卒業後は、日本でいう高校となります。一般の高校に行く人もいれば、商業系高等教育、工業系高等教育、職業教育などに行く人もいますが、内容はかなり実践的です。例えば商業系だと、社会起業家になるにはどうしたらいいかという話があります。その後大学に行く人もいれば働く人もいる、という選択肢があります。

 

そして、日本でも最近取り上げられるようになってきているのが、卒業後17.5歳以上の人は誰でも受けることができる成人教育、フォルケホイスコーレです。これはデンマーク発祥の、人生の学校と言われている成人教育制度です。試験、成績、評価なし、卒業証書、資格もなし。寄宿舎制で、先生もそこに寝泊まりするような場で、先生と対等に1つのテーマで議論を重ねていきながら、自分の中、外に学びを得て行く場です。人は誰でも人生で立ち止まり、自分と社会をよりよく知りたいと思う期間があると思いますが、デンマークではいつでもこうした時期に対応できるような制度が用意されているんですね。

 

デンマークは大学院までの教育は無料で受けることができます。エフタスコーレとやフォルケホイスコーレは費用発生しますが、家庭環境に応じて補助金が発生したりもします。」

 

これだけ教育制度が手厚いデンマーク。実際、国民総支出における教育費の割合は15.2%(2011年時点)と、日本の約3倍にものぼる。(日本は2009年時点で5.0%。OECD「Education at a Glance」より)。デンマークの教育を語る上で、ポイントとなる点が3つあるという。

 

「まずは全ての生徒の最大の可能性を引き出す、ということです。これは、全ての生徒が同じようにできることを目指しているわけではありません。例えば私の息子は、英語は非常に得意な反面、数学は苦手ですが、親子面談では「得意な英語を最高得点まで伸ばしましょう!」と言われるんです。世の中は皆の得手不得手の組み合わせでできているから、どう組み合わせたら国として最大限の力を出せるのかを考えよう、という発想がデンマークにはあると思います。

 

次に、生徒の社会的背景に学業成績が左右されないようにするということ。デンマークはもともと社会格差がほとんどない国ではありますが、それでも例えば移民で親がデンマークで仕事がなかなか見つけられない、家族の病気などで学びが難しくなるといったことはあります。でもそれで子供の将来が左右されてはいけないということで、金銭的・学習的なサポートがあります。

 

それから、日本の学校と比べて生徒と先生にヒエラルキーがないので、校長先生もファーストネームで呼びますし、プロジェクトワークを通じてお互いに学び合う環境があります。学校は専門知識を共に学べる、それを提供してくれる人、場ということで学校を尊重する文化があり、そこで学びを肯定できることを目指しています。」

教育大国の根底に流れる歴史、思想とは

人間が100年生きると言われるこれからの時代、注目されているのが成人教育。20代前半までの学びを、社会人となってからアップデートできるかどうかは重要だとされている。デンマークのフォルケホイスコーレはこの点で非常に注目に値する。デンマークでは25-36歳の3人に1人がフォルケホイスコーレを受けているほどの高い利用率で、個人で行くケースもあれば、企業が後押しするというケースもある。

 

「デンマークは社会人になっても教育を受ける権利というものが定められています。これは法律ではなく、デンマークの場合は大体労使協定で全て決まって行きます。労使協定では、年間14日間の個人が希望する教育機会への参加権利も定められていて、交通費、受講費も支給されますし、給与も一部は支払われます。失業中、休職中にも受けることが可能です。」

 

フォルケホイスコーレはなぜ生まれたか。そこにはデンマークが強靭な民主主義を作る決意を固めた、歴史的背景がある。

 

「デンマークは昔は北海帝国と呼ばれる大国だった時代がありましたが、戦争に次々と負けて小さくなりました。その過程で、1801-1807年にナポレオン戦争へ加担させられる形になり、敗戦の結果1813年に国家財政が破綻してしまったのです。他国の要請に応じて戦争にばかり出ていたら、国として立ち行かなくなることがわかった瞬間でした。もっと民族としての誇りを持ち、生きたいような生き方ができるようにしたい。そして残り少なくなった国民の民度をあげて、全員が意見を言える強い民主主義国家を作ろうという気運が高まりました。

 

フォルケホイスコーレを作るきっかけとなった人物が、N.F.S.グルントヴィという教育者、哲学者です。彼は全国民がそれぞれの意見を持つためには教養が必要で、そのために教育を施す必要がある、特に農家の人たちの意見を聞く必要があると感じ、エリートだけに行われていた教育を一般の人にも提供できるようにと啓蒙活動を行いました。

 

フォルケホイスコーレは最初はキリスト教の考えに基づいて始まりましたが、現在は非宗教的、国家からの制約を受けない独立した存在で、カリキュラムに関しては口出しされない形になっています。音楽、芸術、デザイン、ライティング、ジャーナリズム、宗教、心理学、哲学、文学、スポーツ

など様々な分野で学べる機会となっています。国内だけでなく外へのエクスカーションも行い、毎年5,000-7,000人が参加しています。日本からもたくさんの方がきてくれるようになっていますね。」

 

デンマークで現在もこれだけ教育が徹底されているのには、強い目的志向があるからだと、ニールセン北村氏は考えている。

 

「デンマークでは教育に限らず、まず『どんな国でありたいか』が先に来るんですね。今とくに重要視されているのは、持続可能性、たくましさ、自律性、多様性、柔軟性を持ち、できるだけ争わず平和でいられるということ。これらのことを実現するためには、教養、発想力、俯瞰力、対話、交渉力、実現力などが必要です。また物質的な面から考えれば、食料、エネルギー、水、空気が自給できていれば、他の国と争うことなくやっていくことができる。ここに向かって教育も組み立てられていると思います。」

 

最後に、デンマークの教育のキーポイントを5つ挙げていただいた。

 

「まずは、ハイスタンダードであること。基本的に大学は国立しかなく、教育については国が規制し、財源も賄います。民間の教育機関についても、国が認可し、常に評価を続ける仕組みです。次に、社会との関連性を重視すること。学校で求められているものと社会で必要なものがつながっていないと意味がありませんので、国立でありながらも社会や企業と連携しながらプロジェクトワークを行っています。そして生涯学習。人は生涯学び続けないと民主主義社会に積極的にはなりにくいもの。そのような場をつくりましょうという話をしています。

 

年齢にかかわらず積極的な参加をすることも重要です。子供達を子ども扱いせずに、1人の人間として意見を対等に交わしていくという文化があります。そして最後に、プロジェクトワーク。通常のクラス授業だけでなく、個人または小グループによるプロジェクトワークのような学際的活動も教育の一環として行なっています。

 

デンマークでは、全ての若者が民主主義社会に積極的に参加するための教養と能力を身につけ、人間として成長できるために教育が必要と考えられています。必ずしもデンマークの教育だけが素晴らしいとは思いませんが、一つ参考になれば嬉しいです。」

Q&A

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– 今やインターネットも普及し、体を動かして大学に行かなくても、知識は手に入る時代になったと思います。そんな中で大学という場所は、一体どういう学びの場になっているとお考えでしょうか。高等教育の”質”という観点から伺わせてください。

 

北村友:高等教育の質には、2段階があると思います。まずは、その分野を学ぶ上で一通り学ぶべき内容をクリアしているかということ。例えば、理系の資格認定にはクオリフィケーション・フレームワークというものがありますが、工学系やエンジニアでは、それぞれの職において最低限必要なものの知識が備わるような教育プログラムを作る必要があります。教育の質を語るときに、まずはこの基準を満たすような教育が必要だと語られます。でも、ご指摘のとおり、こうした知識のなかには必ずしも大学に行かずとも学べるものが多々あります。

しかし、もう1つ大事だと思うのは、大学の、いわゆる講義の内容以外の、例えば雑談であるとかインタラクション、キャンパスライフの中で起こる様々な出来事から得られるものです。実は僕は、大学の学びとしてここが実は非常に大事なのではないかと思っているんですね。オンラインは教科書の映像版みたいなところがありますが、大学には実際に足を運ぶからこそ起こることがある。うまく言葉に表現できませんが、こうしたことが大事で、大学の質を左右すると思っています。

 

ニールセン北村:大学の宝物のような時間は、対話、議論ができる自由があるところにあると思っています。物事を突き詰めて考えた上で、いろんな仲間と話し合えるというのは、本質的な学びの場になりますし、その後いろんなものが熟成されていくと思います。

 

 

– 関連性(社会、経済との連携)というお話がありましたが、産業との繋がりを重視しすぎると安易な、危うい教育になってしまう気がするのですが、そのあたりはどのようにお考えでしょうか。

 

北村友:すごく難しい問題だと思います。大学も、ある意味では社会の映し鏡だと僕は思っているんですね。社会に余裕がなければ大学にも余裕がなくなってしまいますし、社会が即物的、即効的なものを求めてくれば、大学もそうなってしまうとすごく感じます。日本の大学が経済至上主義に陥ってはいけないと思いつつも、社会からの要請によって経済的に効果が出るものを重視する方向に進んでいっていることは事実だと思いますし、それをおしとどめられずにいることには危機感も感じています。人文社会系の学問は役に立たない、と切り捨てられる傾向にありますが、昔は高等教育機関は知的経験を積む場として、社会的にも広く受け容れられていました。極論を言えば、今は就職するまでの場となってしまっています。いわゆる経済至上主義とは離れたところで考えると、例えば哲学、倫理学、それから歴史をきちんと学ぶことが、とても大事だと感じています。

 

ニールセン北村:デンマークの場合、国としてやりたいことがはっきりしているのが特徴だと思うんですね。例えばエネルギーについていえば、2050年ごろまでに化石燃料から脱却すると明確に打ち出しています。そうすると、そのためにいつまでに何をすればよいのかが明確になります。この点、日本は何をしたいのがわかりにくいところがあるのではないでしょうか。世界的には、経済は成長し続けなければならないという考えがまだ主流だと思いますが、本当にそれが必要なのか、人口減少が確実に起こる日本でそれが可能なのかということは考える必要があると思います。それによって教育の中身も変わって行くと思うのです。

 

あとは、北村先生から仕事に直結しないことが大学教育で削られて行くという話がありましたが、政治にしても社会にしても経済にしても、哲学や倫理がなければ何をベースにして考えたらいいのかわからないですよね。そこをなくしてしまうというのは、本来あるべき土台をなくして、急いで物事を作ってしまうということ。その後が怖いと思います。日本では哲学や倫理を大事にしてきたと思うので、今の時代に合わないからと捨てないでほしいです。

 

 

– 日本でここ最近リカレント教育ということが言われていると思いますが、大人の学び直しについて、デンマークほどのベースが整っていないと思います。その中でどうしていくのがよいとお考えですか。

 

北村友:リカレント教育について、大学の通常の教育プログラムのなかで行っていくパターンと、そうではなくエクステンション(市民講座など)としてやっていくパターンがあると思います。日本ではエクステンション・レベルでは頑張っている方だと思うんですが、それはこれまでの考え、発想を劇的に変える、それがキャリアに大きくつながるといったことにはまだまだなりにくいと思うんですね。大学院レベルでは社会人入試を取り入れ始めたりしていますが、学部でもこうした動きになっていくといいなと思っています。

 

ニールセン北村:日本の企業も変わっていく必要はありますよね。新卒一斉採用をする意味が今はまったくわかりません。それを人事側もちゃんと考えてほしいと思います。今の働き方にも問題があって、有給すら取りにくいような環境だと、これからのことを考える余裕も無くなって行くと思います。何かしら仕事と距離を置けると、そこから何か新しく学びたいと思えることもあると思います。

あとは労働組合が形骸化していることも問題です。もっと労働組合と経営者が対等な立場になる環境にならないと、次のステップにはなかなかいけないんじゃないかと思っています。日本でもフォルケホイスコーレを作りたいという声をだいぶいただいていますが、大学や大学院に入るほどではなくても、もっと学びたいという人もたくさんいるはずです。逆に若い人からは、バブルのころの感覚、何を考えていたか知りたいという声も聞きます。そういうやりとりができる場を作りたい、作るお手伝いがしたいと思って活動しています。

 

 

– 先ほど『教養』について触れておられましたが、なぜ教養が必要なのか、という問いに耐えられるだけの教員が大学にどれだけいらっしゃるのか、正直疑問です。そのあたりについてはどうお考えですか。

 

北村友:少し回答がずれると思うのですが、僕は大学の学びには、2つの考え方があると思うんですね。生きている上で役に立ったり、悩んだ時に考えの指針になる学びというのは、大学でものをきちんと考えていれば、本来できるはずだと思います。世の中の物事について、問題の所在を特定する、それを解決するための問いを立てる。どのようにその問題が起こっているのか、それはなぜなのかを考える。解決するための方法を論理的に議論して、解決していく。これが研究や学問の一連の流れだと思います。大学で学ぶということは本来、物事を考える上での筋道の立て方を学ぶということであり、社会でも必ず役に立つと思うんです。

もう一つ、学問なんて役に立たなくていい、という考えも僕はあると思っているんです。知的な好奇心を掻き立てられて、常人では考えられないような労力を使って何かを突き詰めて行く。それって、社会に出てから役に立たないことも多いんじゃないかと思うんですね。でも学問ってそういうものだと思うんですよね。

 

加えてもう一つ、重要なことを伝えさせていただきたいのは、知的トレーニングを積むためには、今のままの大学制度ではダメだということ。みなさん、大学に行かれたころは、授業を4年間で126単位くらいは取ったと思うんですね。でもそこでは、時間的な制約などもあり今言ったような知的なトレーニングというのは十分にできなかったのではないかと僕は考えています。なので今僕がいろんな場で言っているのは、大学4年間で履修する科目数を3分の1にしてはどうかということ。その代わり、1コマが通常90分の授業を、3時間ぐらいの長さにして、まとめて議論したほうが良い授業は長く時間を取る。それからスキルが必要な授業は、1週間の中で2回か3回に分ける。そういう風にそれぞれの科目や学びの特性に応じて、学び方を柔軟にしてもいいと思います。こうすることで、1つのテーマについてもじっくり議論する時間が確保できる。ちなみに、この方法だと、いまの単位制度を変えなくても、それぞれの大学や学部の判断で導入できるんですね。たとえばアメリカの大学では、ハーバード大学を筆頭に、1つの講義のために毎週必ず少なくとも本を1冊は読んで、それについてなにかを書き、皆で1時間から2時間、場合によっては数時間にもわたって議論するといったことをやっているんですね。日本では非現実的といわれてしまうんですが、こういう仕掛けをすることで知的トレーニングを積んで行くことはできると思います。

 

ニールセン北村:哲学は自分も日本にいるときには必要性をあまり感じませんでした。でもデンマークにきてからは、誰でも二言目には「自分の哲学は…」ということを語るので、最初は驚きました。哲学というのは、結局自分がどうしたいのか、それをブレずに保つためのツールだと思います。教養というのは、そのために存在するものではないでしょうか。

未来教育会議の所感

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今回、「グローバルシステムの学び方と生き方」ということのお題でお二人の話を聞き、浮かび上がってきたことは、「グローバル」にものを考えたり、学んだり、生きることとは、詰まるところ「本質」を考え、学び、生きることであるということであったように思う。

 

その観点から、北村先生のお話は、「大学」がどうあるべきかの話へと展開した。大きな示唆を頂いた。

一つには、「知を創出する場」であるという視点。

二つには、考え抜いたことを「対話で研鑽していく場」であるという視点。

大学とは何か?このことを、我々は今一度考えなおす時期にあると痛感する。知的創造社会において、もっと大学が中心になり社会を牽引していく必要があるが、これは、社会に出てすぐに働ける即戦力人材を育てるという考え方とは違う。今の社会に対応する人材ではなく、社会自体をアップデートする人材を育てるべきで、それこそが、大学の役割ではないかと考えさせられた。

また、大学自体が、そのような「学びの場」としていく力を持たなければいけない、という指摘もあった。さまざまなテクノロジーによって知識を身に着けること自体は、別に大学に行かなくても出来るとき、大学は「どのように知を創出する学びの場であるか」という点において高いレベルで答えつづけられることが期待される。そうした意味で北村先生の理想のカリキュラムのお話は大変興味深い。非常に具体的であり、制度やルールとしてもやろうと思えば実現可能なのだとも聞いた。よりよい学びの場への大胆な改革を社会全体としても応援したい。

 

経済界のニーズと大学の在り方については、よく実践的即戦力か教育の質か、という二元論に陥りがちだが、ニールセン北村さんの、国のビジョンこそが大事という指摘は、的を得て心地よい。デンマークでは国づくりの哲学とビジョンがあるから、教育のレベルが高くかつ実践的でもあるという。この視点は日本にとても重要でしかも実現できていると言い難い。経済と教育の対話が重要だと未来教育会議が考える核心でもある。
ニールセン北村さんには、大学だけに限らない教育制度全般についての示唆を頂いた。繰り返しにもなるが、重要な視点と考えるため、ここに要約したい。

 

1つには、パーソナライズされた学び

ひとひとりの子どもの異なる可能性を最大化させることに主眼があり、発達段階初期にクラスの子たちが別々のことをやっていることはマルチプルインテリジェンスの観点からも大切。公平と公正は違うという北村先生のお話とも通じるものがある。

2つめには、貧困と教育の負の連鎖を無くすこと

3つめには、教師と生徒が学びあう関係であること

子どもからは、学びの場とコーチとしての尊敬が前提にあり、また教師も子どもを子ども扱いせずに、一人の人間として重視する。

4つめには、学校で行うことと社会との関連性を重視すること。

学校は、国立でありながらも社会や企業と連携しながらプロジェクトワークを頻繁に行っているという。高校期に、一般の高校に行く人もいるが、商業系高等教育、工業系高等教育、職業教育などに行く人も多くいて、内容はかなり実践的。

5つめには、民主主義教育という考え方

社会に積極的に参加するための教養と能力を身につけるという、政治参加の視点と教育が結びついていることは、日本の極めて弱いところであるように思う。未来に向けて、ここは日本の大きな課題ととらえたい。

6つめには、充実した生涯学習の大事さ

説明にあったフォルケホイスコーレは、デンマークの教育のシンボルであろう。

7つめには、教育支出について

国民総支出における教育費の割合は15.2%(2011年時点)と、日本は1/3である。教育支出のことについては、日本においてもっと突っ込んだ議論があってもよいように思う。

 

長い時間にわたり、非常に広く深い示唆をくださったお二人に感謝したい。

 

未来教育会議実行委員 兎洞武揚

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