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  • 実行委員会の活動
  • 2018.10.03

「人一生の育ち」を考えるスピンアウト企画 県立徳島商業高等学校 取材レポート【後編】

前編では、高校時代の人の育ちを大きく推進している徳島商業高校について、その取り組みや仕掛け人の想い、子どもたちの成長の土台となっているフリーキャンプについて探ってきた。後編では、実際にこの取り組みで育った生徒や卒業生に話を伺いながら、人の可能性の開花を見ていく。また、こうした取り組みを一地域で終わらせないために何が必要かを、鈴鹿氏に伺った。

「自分も変わり、世界も変えられる」自己効力感の育ち

「中学校の時は人前で話すのがすごく苦手で、作文の発表なんかでもすぐ噛んでしまっていました。ビジネス研究部に体験入部した時、先輩の堂々とした発表を見て、こういう風に喋れるようになりたいと思ったんです。徳島商業に決めたのもこの部活に入りたかったからです。」

 

そう話すのは、高校3年生(当時)、数々のプロジェクトを任されてきた青木さん。入学前に上手く話せなかった姿が想像できないほど、自分のことについて、落ち着きを持ち分かりやすく話してくれた。

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青木「でも実際に入部してみたら、想像以上に忙しくて。高校に入学したてのころは、休みの日友達とどうやって遊ぼうかなと思ってたんですけど、それどころではありませんでした(笑)。」

 

4-5人からなるプロジェクトチームでは、期日までに推進するため各々が役割を持っている。平日、忙しい時の帰宅は20時ごろ、ときには休日も返上して活動する。日々やるべきことがあり、先延ばしにできないところは仕事と同じだ。遊びたいという気持ちを持ちつつも青木さんが部活を続けてきたのは、最後は自分のやりたいことがここでなら実現できるという想いからだったという。

 

青木「この部活を通して、人前で話せるようになりたいという願いは叶っていますし。それに、鈴鹿先生の下ではやりたいことが最大限できるので、濃い日々が送れて楽しいです。高校生活、悔いはないですね。」

 

自分自身を変える一番のきっかけになった出来事は何だったかと聞くと、フリーキャンプという答えが返ってきた。

 

青木「キャンプでは、人と嫌でも関わるんですよね。最初はしゃべるのが不慣れで、どうしよう、という感じだったんですけど、子どもたちと遊んでいるうちに周りの大人たちとも段々と慣れていきました。優しい人も多かったので、自分の話を聞いてくれるんだっていうのが嬉しくて、話しているうちに人前でもだんだん緊張しなくなっていって。2年生の終わり頃には自分から話しかけられるようになりました。この前宮城の方に行った時は、自由行動の時に全く知らないおじさん2人に話しかけられましたけど、そのまま30分くらい立ち話していたくらいです(笑)。」

 

キャンプでは、ある種逃げも隠れもできない非日常で2-3日を過ごし、相手の気持ちを汲み取りながら同時に自分のやりたいこと、やるべきこと、そしてできることとできないことついて考えることになる。そうした中で青木さんは、自分と折り合いをつけながら、相手との関係性作りを体得してきたようだ。

 

青木さんに、3年間で最も思い出に残っているプロジェクトを聞いてみた。

 

青木「特に自分なりに取り組んで一番力を入れたのは、伊奘諾(いざなぎ)神宮のお土産づくりです。自分は関係者の方との連絡係と、パッケージのデザイン、活動ロゴのデザインを担当しました。神様へお供えができる品を作ろうということになって実際、幽宮(かくりのみや)神饌として伊弉諾神宮の御神饌に正式に認定されたんですよ。9月23日の国生みの日に行われた伊弉諾神宮の神楽祭で販売もしました。その際に宮司さんが伊弉諾神宮認定という看板を手書きで作ってくれて、その横で販売できたのが、一番達成感を感じられたときでした。」

 

聞けば、青木さんがデザインに興味を持ち始めたのはこの部活に入ってからなのだという。

 

青木「広報部でチラシを作っているうちに、面白いなと思って、それからデザインの本とかを読むようになりました。せっかくデザインをするなら、全部に意味を持たせることにこだわりたいと思うようになって、伊弉諾神宮の活動ロゴのデザインもまずロゴマークをイラストレーターで10種類くらい作るところから始めたんです。パッケージ自体も、例えばお菓子にちょっと高級感を持たせられるような箱の開き方を考えたり。それと、宮司さんの話を聞いて初めて知ったんですが、ご神前として使われるものは下が白くないとあかんらしいんですよ。なので箱の下に使う色を白くして、全体は日本の伝統色を使ったえんじ色で作ったりしました。」

 

自分が苦労して考えたものに、周囲が応えてくれる。アドバイスやアイディアを元に試行錯誤を繰り返していくうちに、最初からは想像もつかなかったクオリティのものが形になり、多くの人に認めてもらえるようになる。それが青木さんの中で何よりの充実感と喜びになったようだ。

 

前編にも出てきたカンボジアの商品開発プロジェクトには、主にカメラマンとして関わっていたという青木さん。1000万単位の金額が動いた国をまたぐビッグプロジェクトについて、どんな感想を抱いていたのだろうか。

 

青木「自分が1年生の時、カンボジアに工場を作ろうかという話が出ていたんですが「高校生が工場なんて作れないだろ」って冗談半分で聞いていたんです。それが2年生になって建設が決まったと聞いたときは「え、本当に形になるんだ、夢物語じゃないんや」って。心の底から驚いたというよりは、嬉しさだったり、しっかりやることやっていったら実現ってするんやなっていう感動の方が大きかったです。他の人が工場の模型を作ったりしていて、こんな風に形になるんやなっていうことも実感できましたし。」

 

高校生の時期は、ともすると「自分が何をしたって、世界は変わらない」という無力感に苛まれがちではないだろうか。しかし青木さんら徳島商業のこの生徒たちは逆だ。「自分は、世の中に影響を与えられる」という自己効力感が育まれている。いや、もともと高校生の時期は、そうした可能性を本来もっており、それが自然な形で開花しているのだ。

 

入学当初は、高校卒業後は就職を考えていたという青木さんだが、このプロジェクトを通じてもっと徳島を活性化させられるようになりたいと、最終的には大学進学を自分で決めた。大学に行くことを想定していなかった親と話し合いを重ね、説得したという。彼の話を聞いていると、自分の可能性を開花させ、自分自身で人生を切り開いているその瞬間に立ち会っているのだと強く感じた。

 

青木「今考えているのが広告代理店さんだったり、雪花菜工房や地元に根ざした活動している企業に就職すること。あとは鈴鹿先生みたいに、教職を取ろうと思っているので、自分みたいな経験ができる人がもっと増えるような活動も将来はやってみたいと思っています。」

7年前の責任感・充実感の芽生えが、今を作っている

徳島商業で学んだ生徒の中には、すでに実社会で活躍しているOBもいる。その1人が、現在TOKUSHIMA雪花菜工房の理事長として活動している東丸(とまる)慎太郎氏だ。2011年、当時高校3年生だった東丸氏は、バレーボール部の活動が夏の全国大会を最後に終了した際、徳島商業に赴任してきた鈴鹿氏の誘いを受け、東日本大震災後の宮城県女川地区での活動に参加し尽力してきた。大学進学後、会社や高校生との取り組みのマネジメントに興味を持ち、大学2年生で現NPOの理事長に就任し、高校生、卒業生たちと共に事業を推進している。

 

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東丸「このNPO法人は、今主に2本の事業の柱で成り立っています。営利系の事業では、高校生と開発した商品の販売や徳島の農産品等の卸を行う商社的機能を持っています。非営利系事業では各省庁やJICA、様々な財団や基金からの助成をいただき、高校生を始めとした若者の活躍できるフィールドを提供しています。今は事業に直接関わるスタッフも少ないので、増員しながら体制を整えていきたいと思っているところです。」

 

鈴鹿氏とともに活動をして、7年ほど。これまでを振り返り、ターニングポイントはどこにあったか聞いてみると、最初に取り組んだ女川地区での活動が挙がった。

 

東丸「被災地で小学生の支援活動をしていて、普段の学校生活では面倒を見られる側だったのが、子どもの心の拠り所としてお世話をする側に立って、責任感が芽生えたのは大きかったです。僕らが女川に行ったおかげで不登校の生徒がいなくなったとか、今まで全然学校生活を楽しめていなかったような子がどんどんクラスの中心になっていくという話も後付けで聞いたりして、よりやりがいも出てきましたし、僕たちがやっていることは間違っていなかったんだなと思えました。」

 

東丸氏は2011年から今まで、毎年欠かさず女川に足を運んでいるという。

 

「「ずっと関わりは消さずに、ここに来ますから」と女川地区の人に言って以来、本当に毎年行っています。それは想いの強さもありますが、後は女川の子と電話やメール、LINEでずっと連絡が繋がっていたというのも大きいです。小学校を卒業した後も連絡をくれたりしたからこそ、関わりが続いているのかなと思います。」

 

高校卒業後も、このプロジェクトに関わりを持ち続けたのはなぜだったのだろうか。

 

東丸「責任感みたいなものもあったのかもしれないし、段々それが当たり前の状況になって、後に引けなくなったというのはあるかもしれないですけど(笑)。でも鈴鹿先生と一緒にやっていると、今までないものをどんどん創造していけるので、その面白さは当時から感じていたと思います。ビジネスに興味を持っていたので、後輩の商業活動をマネジメントできることも大きかったです。」

 

大学卒業後も就職という進路をとらず、NPOのトップになることを決めた。

 

東丸「この歳でこれだけの経験をさせてもらえるなんて、すごくありがたいと思いますね。忙しいですけど、日々充実しています。大きな企業に入った同級生と自分で一番違うと感じるところは、自分で物事を決める回数の多さ。それに尽きるような気がしますね。例え間違えることがあったとしても自分で責任を取る、という意志の下で決断するというのは、全然違う気がします。」

 

この先、抱いている事業構想はあるのだろうか。

 

東丸「今の事業が教育と企業とwin-winの関係を作れているというのは、とても面白いですよね。NPOでありがちなのは、どこかから予算をもらって社会のため、地域のためにと使うと、結局それではご飯が食べられなくて、持続性がなくなってしまうというパターン。でもこれからはそうではなくて、ビジネスとして自分たちでしっかり稼げるシステムを持ち続けながら事業をやりたい。すでにそれが形になってきているというのは大きいかなと思います。

 

10年後、20年後は…今やっている教育に関わることもやっているけど、それは後輩に任せて、自分はバリバリビジネスをやっていたいですね。会社設立も、選択肢の一つとしてはあります。」

 

 

自分への肯定的感覚が基盤となった他者との関係づくり、そして社会に対して自分をどう活かしていくかの夢やチャレンジを語る東丸氏は、同世代からみると眩しさを感じるほどかも知れない。こうした彼の成長は、彼自身の力であることはもちろんであると同時に、それは、確かに高校期の環境から育まれたことを強く感じた。

世を動かす人を育てるために

こうして、生徒の目覚ましい成長の環境を創ってきた鈴鹿氏。そのために日々意識していることを改めて伺った。

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鈴鹿「まず一つ、僕は高校生たちを子ども扱いしないこと。生徒には1人の人間として自由も与えるし、同時に責任も与えます。ただし、やる気のない人にそういう環境を与えてもやる気にはならないので、まずはやる気のある先輩たちがおり、その先輩たちの背中が見える環境で、一緒にやっていくうちに、自分もやる気に火がついていくという感じです。

 

なおかつ意識しているのは、関わっている相手の顔が見える環境に身を置いてもらうこと。これは僕の中ですごく重要なんですね。カンボジアも、女川も、相手の顔が見える。例えば東日本大震災の後に、ボランティアで募金活動をやった人って山のよういますが、そのうち何人が、今東日本大震災に対して思いがあるのかというと、多分ほとんどないと思います。それが、なぜうちではやれるのかといったら、東丸も言っていたように、向こうに顔を見た子どもたち、先生たちがいるということが、実感としてあるから。それに部活を引退してからも子どもたちとは個別で連絡とったりしてるんですよね。その関係があるということがモチベーションにつながるし、自分たちがお兄さん姉さんなんだっていう自覚も湧いて、成長をしていく。カンボジアも同じようなことが起こっています。そういう環境を整えていくということは意識しています。単に絵空事だけでは済まなくなるんですよね。」

 

子ども扱いしないことで、やりたいことと責任感の基盤を創る。そして相手と顔が見える関係を作り、相手の変化や関係の質の向上の確かな感覚が、自分が成長している実感となる。こうした環境づくりが、子どもたちを育てているのだ。

 

だが、一教員という立場からこの環境づくりを行うのは、そう容易いことではない気がする。実現にあたってのポイントはどこにあるのだろうか。

 

鈴鹿「僕がもともと民間経験者というところが大きいかもしれないですけど、民間と学校、どちらがどこまで歩み寄れるか、その落とし所をうまく作ることだと思います。学校は生徒を成長させることを使命としていますが、同時に生徒を守らなければならないという側面もある。その境目を意識しながら、民間が学校とどうすれば協力してくれるのかを考えています。「お願いします」って丸投げしては決裂してしまうので、例えば今、予算があるから試作費これだけ出せるよ、とか予算がなかったとしてもこういうメリットがあるよということを提案したり。そうした関係性作りはいつも意識していますね。」

 

意欲ある教員は全国にいるものの、学内ではマイノリティになり孤立しがちなのでは、と話す鈴鹿氏。これからは、そうした教員同士がつながり、生徒の育ちを高校時代限定にしない取り組みをしていきたいという。

 

鈴鹿「教員同士が情報を共有しながら前に進めるフィールドを、今作ろうとしています。それができれば、先生が地域の発信塔になれるのではないかと。

 

それに子どもたちにとっても、せっかく高校でこういう活動をしていても、大学に進学してから輝けなくなる、普通の子に戻ってしまうケースってあると思うんですよね。そういうことがないように、垂直水平でフォローアップできるところまで作っているのが最大の目標ですね。国を、とまでいかなくても、地域を背負うくらいの人を全国で輩出していけたらいいなと思っています。」

 

ここまで見てきた通り、特別なスキル・経験を持たなかった高校生たちも、意欲を携え、然るべきフィールドで成長することで社会に影響を与えるだけの力と自信を身につけていけることがわかる。人生100年、生涯学び続ける今の時代、「高校生だから…」「社会人だから…」という線引きは意味をなさなくなってきているかもしれない。一歩先に社会に出た人間ができることは、社会を変えられるという実感を学生から持てるような、成長環境を作り出すこと。その取り組みはもう、始まっている。

未来教育会議の所感

彼らのカンボジアのプロジェクトでは、HACCP認証の工場をカンボジア現地に作りたいと彼ら自身が考え、専門家を招致し工場づくりから始めてしまっています。
さらには、原料として使う農産物においても、グローバルでの安全の認証になっている基準を満たしたものを使いたいと考え、現在、農家と一緒になりながらG−GAP認証を取得するため、高いハードルを超えようとしています。

彼らの動きは、カンボジアでのこれまでの農業を安全や環境面で飛躍的に進化させるインパクトを持っているかも知れません。

内的動機から、試行錯誤しながら世の中に働きかけ、変化をもたらす。まさにそうしたことがここでは起きていると思います。

 

今の日本の状況から考えると、とても驚いてしまいがち、あるいは特別な学校だと思ってしまいがちですが、しかし、我々が、ここで認識すべきは、これが本来の高校期の人の自然な力であり、ポテンシャルであるということなのだと思います。

 

そのポテンシャルを開花させていくための環境づくりとして、鈴鹿先生は、フリーキャンプにおける、自発的で自己組織的な動きが必要な環境で、自分自身を見つめたり、自分の役割や他者との関わりなどの感性を磨いていくことをサポートしています。
その基盤がないと高次のプロジェクトの実践は無理ですとも言っていました。

これは、生徒達がこれまでに本来開花しているはずだが、そう出来ていなかった社会・情緒スキルを高校期において高め磨いているという見方が出来ます。
こうした社会・情緒スキルを基盤づくりと平行して高次のプロジェクトを実践していく、そうした学びの環境を創っているのかと腑に落ちた次第です。

逆に言うと、中学校期までに、こうした社会・情緒スキルが開花されていれば、高校生期には、自然な力の開花として「世の中を変えていける」と本人が感じる、ここまでの生き方と育ちが可能なのです。

 

徳島商業の鈴鹿先生の環境づくりの取り組みと実際にそこで育った生徒や卒業生との出会いは、「人一生の育ちの可能性」について、大切な視点をくださいました。心から感謝したいと思います。

 

未来教育会議 兎洞武揚

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  • ライター

未来教育会議 実行委員会

未来教育会議実行委員会です。

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