PREV
NEXT
  • 未来教育リポート
  • 2015.02.23

教育における日本らしさとは何か? 〜深く静かな衝撃を受けた一燈園〜

未来の教育において「日本らしさ」をどのようにとらえるか?

皆さんは、このような問いが目の前にあったとしたら、どのような答えをお持ちですか?

私自身は、未来教育会議で21世紀の教育のあり方をずっと議論してきていて、大切になる視点は捉まえてきていると思っているのですが、実はこの「日本らしさ」という点についてはまだまだ答えは出ていません。

一般的には、和を重んじる、礼儀が正しい、勤勉である、、、、、などが日本の良さとして挙げられ、こうしたことは、日本が世界に誇れまた世界に貢献しうる文化ではないかという話がある一方、そうした文化的な特徴が、教育を画一的なものとし、個に寄り添う育ちを困難なものにしていることもまた一面であると思えるからです。

そして、少し不遜なことを言ってしまうと、私自身が、日本らしさを世界に誇れる形として昇華している教育をまだ知らなかったということもその理由の一つです。

 

しかしながら、私は、一燈園を訪ねさせて頂いて、本来の「日本らしさ」というもののエッセンスがここにこそあるという静かで深いそして強烈な印象を受けるとともに、このエッセンスは世界に貢献しうると感じました。

私のようなものが、紙面で、そのことを伝えることは暴挙に近い気もしますが、それでもその使命にチャレンジしてみたいと思います。

image2

image3

こころの内省、生活習慣、学習とが一体となり学びと成長を形成するモデル。

一燈園は、創業者の西田天香の教えを40年以上にわたって身をもって伝える相大二郎先生が学園長をなさっている幼稚園、小学校、中学校、高校の一貫教育を行う学校です。少人数クラスで個性を伸ばす全人教育を目指しています。

 

一燈園には、祈・汗・学という3つの教育理念の柱があります。

最初にこの3つを聞くとなんだか古くさい精神論のように聞こえてしまうかも知れませんが、私は一燈園のすばらしさがここに集約されていると思います。

「祈」とは、すなわち「心への刺激」であり、内省を奨励し人間性・価値観を形成すること。

「汗」とは、すなわち「体への刺激」であり、毎日の生活習慣を通じてそこに何かを学び取るということ。

「学」とは、すなわち「脳」への刺激であり、知識や技術を身につけるということ。

そして、「学」は教えることは出来るが、「祈」と「汗」については教えることができないのであり、本人が「気づく」のである。と相大二郎校長先生はお話しされました。

どうでしょう。どこかすんなりと腹に落ちる考え方ではないでしょうか。

さらにそのための具体的な教育方法ついて、深堀って紹介したいと思います。

毎朝の瞑想から一日が始まることの意味

一燈園の朝は、小学生から高校生までの生徒と先生たちが、一堂に集まり瞑想から始まります。そのために、まるで禅寺を思わせるような瞑想のための部屋があるのですが、案内されここに入った瞬間に清涼で精錬な気を感じました。おそらくは長年の瞑想によって空気そのものが浄化されているようなこともあるのでしょう。

 

毎朝行われる瞑想の時間は二十分間ということで、小さな小学一年生の子どもたちは平気ですか?と相大二郎先生にお尋ねしたところ、「子どもたちは、この静寂の時間が好きなんでしょうね。みな静かにして過ごしています。そしてこの瞑想の時間だけは誰も遅刻しないんです。子どもは正直ですから、嫌なことには遅れてきますから。」とやさしい笑みとともにお答えがかえってきました。

 

一燈園のこどもたちの作文を読むと、私たち大人以上の恐るべき深い内省力が備わっていることを感じます。内省力とは、「自分自身」が一体、何を感じているのか、考えているのかを感じ分かる力だといえます。私や多くの皆さんは学校や社会人になって、随分と自分の外部にある知識や情報を膨大にインプットしたり分析したりすることを鍛えられてきたのではないでしょうか。しかし、自分の中にあることに気づくことにどれだけ大切に出来ているでしょうか。

21世紀スキルと言われている「他者との対話」の力は、実は「自分との対話」の力がなければ成立しないものです。オランダやデンマークの視察でよく分かったことなのですが、彼らは高等教育段階で急に、対話型のプロジェクトベースラーニングやアクションラーニングを行っているのではなく、発達段階や初等教育の段階で「自分の感情を感じ」、そのことを「言葉」にし「他者に伝える」ということを学んでいます。それが基盤となって異なる意見や価値感を持つ人とも対話していく力が育っていっているのです。

 

ここ一燈園では、毎朝の「瞑想」という日本的なアプローチで、自分自身と対話する力を身につけることをサポートしているといえます。

こどもたちは、自分の内側にこそ大きな学びの大陸があることに気付くのです。

一燈園では、お昼ご飯は「黙食」(お話をしないで食べる)となっているのですが、これも相先生にお尋ねしたところ「自分と食べ物との対話が、自分との対話につながるのかも知れませんね。」と笑みを浮かべてらっしゃったのも印象的でした。

日常の生活習慣から学びを得る。一燈園のトイレがピカピカである理由。

一燈園のトイレは本当に驚くほどピカピカです。ここでは、掃除は、生徒も先生も便器を磨きます。また、必ず上級生になると必ず作務の時間が設けられており、それは学校の外の地域の清掃などが含まれてきます。そして高2の修学旅行での年頭行願では、見ず知らずの家を訪ね、トイレ掃除をさせて頂く、ことが年中行事で行われるとのことでした。

 

ここまで徹底しているこだわりは、自分の体を動かす労働や奉仕の中に、そこに知識学習にはない学びや大切な発見があるという、先述の「汗」の理念からくるものです。

一生懸命、トイレ掃除をピカピカに行うなかで子ども達は様々なことを感じるようです。人生を生きていくなかでやりっぱなしにしないで後始末をするということ。自分が何かを行い人に感謝をされるということ。見ず知らずの人のやさしさに気付くこと。。。。
生徒たちの作文を紹介しながら、相大二郎先生は、深くしっかりした声で、おっしゃられました。「このような生徒達の気づきというのは、教えられないことですね。」

 

 

さて、一燈園をたずねて、私はあることに気づきました。日本においては、学校は単に勉強を学ぶだけはない場所として暗黙の想定されているのは、生活習慣の中に学びがあるという深い日本的な文化や思想があるからではないかということです。

私たちが視察をしたオランダやデンマークの多くの学校では、清掃は清掃業者が行っていると思います。先生は生徒の学習の習熟について役割を担っていると明確に決まっているからです。

現在、日本の先生が、学習の習熟度、生活指導、クラブ活動、事務など世界でも類をみないほど多くの役割を担い、多忙過ぎることが問題となっています。先生に一極集中している状況は必ず解決されるべきですが、同時に、日本の教育に関わる思想には、何か禅にも通じるような、日常の行動の中に学びがあるのだという深いエッセンスが存在しているからではないか、という点は大切なこととして捉まえておく必要があるように思った次第です。

正しさで、はなく、自然に適う、という思想。一燈園には校門がない。

もうひとつ、一燈園の中心にある思想を紹介しておきたい。それは、正しいか、という発想ではなく、自然に適う、という考え方をもっていることです。自然とは、環境としての自然、現象としての自然、摂理としての自然、全てのことをさしています。一燈園に行くとわかるのですが、本当に美しい庭や、木々に囲まれた中で、まさに摂理を感じていくことを大事にされているように思います。ここには、日本の文化は里山のように、環境的自然と調和しながらその摂理を大事にしてきたこともまた、ここに体現されたように思った次第です。

一燈園には、校門がありません。

正しいか、正しくないかで考えると校門があるべきかも知れません。しかし、この学校は歴史的に真に地域とつながっています。摂理としてこの学校には校門はいらない、それを実現できている凄さがここにはあります。

image7 image8

 

 

だいぶ後になりましたが、相大二郎先生にお聞きした一燈園の創業者を紹介します。

創業者「西田天香」のエピソード

創業者は西田天香。近江商の家に生まれ、小学校卒業後、四書五経、書道、歴史、商売の教育を受ける。

二十歳で北海道開拓。100人の農民と共に。麻を作り、日清戦争で大成功。戦争が終わり、洪水等の自然災害も重なり、給与支払い、利子返済困難に。金と争いのない生活を希求しトルストイ 我が宗教などに触れる。 長浜で死を覚悟した時、赤ん坊の泣く声の後の(乳を吸ったからであろう)泣きやんだ静寂の中に、母と子の間のお金の介在しない関係が自然の中に存在している摂理を見出し開眼。生きることを決意。知り合いの家を手伝い、助けた人が幸せになり、 自分も歓迎されていく生活から第二の人生が開かれていく。「懺悔の生活」を出版し当時、数多く売れる。

西田天香に救われ、彼を慕った人が、北極星と一直線になる建物、一燈園を立てる。

最後に:日本のエッセンスと世界とのつながり

私は、未来教育会議に関わって大きな気付きが1つありました。
それは、私自身も含めて、私たち日本人には、「自分—日本—世界」というレイヤー構造が強固に存在するということです。自分を磨いたら“全日本”があって、その次に“世界”があるという認知構造です。

そしてその認知構造が、今必要である真の教育の改革のハードルとつながっているのではないかという気付きです。
私が未来教育会議の発起に関わった理由は、経済成長一辺倒から来る外部不経済性によって持続可能性の危機が訪れている状況の中で、答えがあることを前提とした知識伝達型の教育ではなく、答えのない不確実な未来において、個々人が自分の頭でものごとを考え、異なる意見を持つ他者と対話し、答えを自ら導きだしていく教育への転換が必要となってくる、と考えたことからです。

そしてこのことを私自身は、21世紀スキルを呼んでいます。

このことを考えた時、日本の教育において、私たち自身が非常に多くの乗り越えなければならない課題や、システムが存在しているのですが、

最も大きな課題は、21世紀スキルの普及を阻害する要因ではなく、21世紀スキル自体を必要と感じないシステムであることに気付きました。

世界の多くの教育先進国は、世界的な問題と自国の問題と個人の問題をフラクタルに捉えることが出来ているように思います。

日本では、「自分—日本—世界」というレイヤー構造によって、世界の視点の前に日本の文脈が先にくるために、日本という視野にとらわれたり、過去の延長線上にない未来を創りだすという21世紀スキルの必要性の認識が遅れるように思うのです。

しかしながら、一燈園にお邪魔して私が感じたことは、日本の本来のエッセンスは、いきなり世界のレイヤーにつながる、むしろこれからの世界において必要なものだということです。

私自身、日本人としての文化やよさを大切にして、世界に直結した「成熟した個人」でありたい、またそういうした子ども達の育ちを本当にサポートしていく教育環境を、多くの皆さんと創っていきたい、そのように心から思いました。

未来教育会議シンポジウム2015 セッション「21世紀教育につながる日本らしさ」にご登壇いただきます

一燈園・燈影学園の学園長である相大二郎先生には、3月7日(土)開催の「未来教育会議シンポジウム2015」でも、「21世紀教育につながる日本らしさ」をテーマに参加者のみなさんと対話していただくセッションを予定しています。
こちらも合わせてよろしくお願いします。
未来教育シンポジウム2015